ブルーノート物語
・創期- 1500番台以前のブルーノート
ブルーノート・レコードは、1939年1月6日、午後2時、シカゴ出身の二人のピアニスト、ミード・ルクス・ルイスとアルバート・アモンズを録音したことにはじまる。
出資者はアルフレッド・ライオンとマックス・マーグリス。
ライオンはベルリン生まれの熱烈なブラック・ミュージックのファン、マーグリスはジャズ・ライターとして活動し、レコード・ビジネスに暗いライオンの右腕となる。当時のライオンは、レコーディングに対する知識も、それをどういうふうに売ればいいのかといったことに関してもまったくの素人だった。
一般にライオンが2人のピアニストのレコーディングを決意したのは、初レコーディングに先立つ1938年12月23日、カーネギー・ホールで開かれたコンサート『フロム・スピリチユアルズ・トゥ・スゥイング』を聴いたことがきっかけとされる。そのコンサートの直後、マンハッタンの駐車場でミード・ルクス・ルイスが働いている姿を目撃したことが大きい。ルイスは当時、音楽だけでは生計が成り立たないため、駐車場の係員の職についていた。同様にアルバート・アモンズもまた、シカゴでタクシーの運転手として働いていた。
ライオンはルイスに駆け寄り言った。「なんてことだ! あなたは天才なんですよ。ここでなにをしてるんですか?」12月23日から1月6日にかけてのある日のこの出来事が、おそらくはライオンをレコーディングへと駆り立てた。
社名は”ブルース・ノート”になる予定だったが、より簡潔にとの判断から”ブルーノート”になる。
レーベル・デザインを彫刻家マーティン・クレイグに依頼する。
第1回発売は、ルイスとアモンズそれぞれ2曲入りのSPレコードで、プレス枚数は各50枚。そのうちの大半は『コモドア・ミュージック・ショップ』を経営していたミル卜・ゲイブラーが販売し、一部がフィラデルフィアのロイヤー・スミスなる販売業者のもとに流れる。
当時は10インチSP盤が主流だったが、収録時聞が長いという理由から、あえて割れやすく値段も高い12インチSP盤での発売に踏み切る。10インチが1ドルだったのに対し、ブルーノー 卜が発売した12インチSPは1ドル50セントだった。
翌1940年、ソプラノ・サックス奏者シドニー・ベシェの『サマータイム』、がヒットしたことによって、事務所を西47丁目10番地に構える。
そして1940年末、ベルリン時代の旧友でありジャズ仲間のフランシス・ウルフがニューヨークに移り、ライオンと合流、ブルーノー卜のスタッフとなる。
ライオンとウルフがはじめて会ったのは1924年(諸説あり)、ライオンが16歳、ウルフが17歳のときだった。以来、ライオンの兵役期間(1941~43年)を含む1947年まで、ブルーノー卜はライオン、マーグリス、ウルフの3人体制で運営される。
1943年、ライオンの除隊を受けて、レキシントン街767番地に引っ越す。
1944年、テナー・サックス奏者アイク・ケベックを録音したことによって、ブルーノートに新展開がもたらされる。
ハーレムのジャズ事情や新しい動きに通じていたケベックは、ライオンに新人ミュージシャンを紹介し、以後ブルーノー卜のターゲットは、それ以前のトラディショナル~スウィング系から、ジャズの新しいスタイルであるパップへと広がっていく。
1947年2月24日、パブス・ゴンザレス(歌手)が率いるスリー・ビップズ・アンド・ア・バップによる録音によって、ブルーノートは完全に新しい時代へと突入する。
設立時からのメンバーであるマックス・マーグリスは、パップへの方向転換に異を唱えるかたちで、所有していた権利をライオンに譲渡、ブルーノートから去る。
・レコード番号その他の変遷
ブルーノートが活動を開始したころ、LPレコードは発明されていなかった。
したがって初期は「BNー1」からはじまる通し番号による12インチSPシリーズがつづき、「BN-56」で完結する(3三枚の欠番あり) 。
次に同じく12インチSPによる500番台が登場、「501」から「573」までつづく(2枚の欠番あり)。
さらにSPによるシリーズは12インチから10インチへと受け継がれ、1500・1600シリーズに入る。ただし1500番台は「1564」から「1600」(3枚の欠番あり)、1600番台は「1601」から「1629」と変則的なものとなる。のちにLP時代の初期にお いて登場するセロニアス・モンクやパド・パウエル、マイルス・デイヴィスやホレス・シルヴァー他いくつかの演奏は、この10インチ時代の1500・1600番台が初出となる。
ブルーノートのSPンリーズは、次に1200番台を設定したにもかかわらず、「1201」 から「1203」までのわずか3枚で終止符を打つ。
同時にここでSPの時代は終わり、LP時代が本格化する。1951年末、ブルーノー卜にとってはじめての10インチLPレコードによるシリーズが発足する。
番号は7000番台と5000番台にふり分けられ、トラディショナル・ジャズやスィング~ディキシー系が前者として30枚(7001~7030)、パップ以降のモダン・ジャズが後者として70枚(5001~5070)、計100枚が発売される(ともに欠番なし)。そして、後者の5000番台がのちの1500番台へと発展する。
1955年。ブルーノート初の12インチLPシリーズが、1200番台として登場する。ただし、この段階ではたぶんに実験的な要素が強く、「1201」から「1208」までのわずか8枚、しかも7000番台の10インチを12インチに編集したものにすぎない。
ごうしたメディアの推移、それにともなうレコーディング技術の発展、そしてなによりも音楽面における劇的な変化は、ブルーノートそのものをも変えていく。
初期は予算の関係もあり、多くのレコーディングはマンハッタン市内のWMGMスタジオやリーヴズ・サウンド・スタジオといったレンタル・スタジオにおいて行なわれていた。それが1943年ころから、より設備の整ったWORスタジオに代わる。以後ブルーノートは、このWORスタジオを中心に、と
きにはアベックス・スタジオやマンハッタン・タワーズを併用するかたちで、ほぼすべてのレコーディングを行なう。
1953年1月、サックス奏者としてのみならずジャケット・デザイナーとしてもブルーノートに関わっていたギル・メレがエンジニア、ルディ・ヴァン・ゲルダーをライオンに紹介する。以後ほとんどのレコーディングは、ニュージャージー州ハッケンサックのヴァン・ゲルダー家の居間を改装した”ヴァ
ン・ゲルダー・スタジオ” で行なわれる。
一方、SPからLPへの移行は、レコード・ジャケットに新しい価値をもたらす。それはデザイナーやカメラマンにとって作品発表の場となり、10インチ時代はポール・べイコン、ギル・メレ、ジョン・ハーマンセイダーなどがジャケット・デザインにあたり、12インチ時代になって、新しい感覚を備えた新人リード・マイルスが登場する。
ライオンとウルフに加えてルディ・ヴァン・ゲルダーとリード・マイルスの4人によって、ブルーノーノート1500番台の幕は切って落とされる。
・1500番台を築いた4人の横顔
アルフレッド・ライオンは(Alfred Lion)は、1908年4月21日、ベルリンに生まれた。父親は建築業を営んでいたが、熱心な美術品のコレクターでもあり、こうした環境がのちにライオンを美術品貿易の仕事につかせる。「私が5歳のとき、両親が旅行に連れていってくれた。滞在したホテルにはダンスホールがあり、オーケストラが演奏していた。両親は私を寝かしつけると、そのダンスホールに踊りに行った。私は着替えて、こっそりダンスホールに行った。ミュージシャンたちが私を手招きしてくれ、私はドラマーの横に座って彼らの演奏を聴くことになった。そのとき、私はなにかを感じた。それは”リズム”だった」
1925年。16歳になっていたライオンは、その日も大好きなスケートをするためにいつものスケートリンクに行った。だがその日はたまたまアメリカからやってきたオーケストラのコンサート会場にあてられ、リンクは閉鎖されていた。
ピアニスト、サム・ウッディングが率いるチョコレート・ダンディーズのコンサートだった。ライオンは、導かれるように会場に入いる。
母親がもっていたレコードによってジャズを聴いてはいたが、その日スケートリンクで聴いた演奏は、それまで聴いたなかでもっとも衝撃的なものだった。それはライオンがはじめて聴いた、本物のブラック・ミュージックだった。
会場をあとにするころにはすっかりブラック・ミュージックの虜になっていたライオンは、次の日から”より黒い” ジャズのレコードを求めてベルリンの街をさまよう。
ライオンが近所に住むランシス・ウルフと出会ったのは1924年とされているが(前述)、以上の経緯から推し測れば、おそらくはライオンがレコード・ハンティングに明け暮れていた1925年から26年にかけてのことと推察される。ただし1924年に出会っていた可能性もないわけではない。
その場合、互いにジャズに興味をもっていることが話題にのぼらなかったとも考えられる。
1928年。19歳になっていたライオンは単身、ニューヨーク行きを決行する。ポケットに入っているのは100ドルの現金のみ、帰りの船の切符すらもっていなかった。
ニューヨーク港に着いたその足で港湾労働の職につき、ジャズ・クラブに近いという理由からセントラル・パークに寝泊まりする。
その後ジャズ・クラブで知り合った友人、知人宅を泊まり歩くようになるが、2年が過ぎようとしていたある日、外国人に自分たちの職を奪われたことに憤慨する連中から暴行を受け、病院送りにされたあげくベルリンに強制送還される。
ライオンの数個のトランクのなかには300枚のジャズのSPレコードが収納されていた。
1937年。ヒットラーによるナチズム拡大の気運をみてニューヨークに移住する。ジャズ・クラブに近いことから7番街235番地にアパートをみつけ、この一室がやがてブルーノート初のオフィスとなる。
現在発売されているCD、ならびに本書ではアルフレッド・ライオンの名はプロデューサーとしてクレジッ卜されているが、ライオンはその現役時代において、みずからの意思によって「プロデューサー一アルフレッド・ライオン」とクレジットしたことはない。なぜなら「私自身がブルーノート・レコードそのものだったのだから」
フランシス・ウルフ(Francis Wolf)は、1907年、ベルリンに生まれた。
父親は数学の教師をつとめるかたわら投資によって財を成し、母親は文化的なことに造詣が深かった。後年ブルーノーを経営面で支え、一方でカメラマンとして活躍するウルフの素養は、両親から受け継いだものといえなくもない。
アルフレッド・ライオン同様、自宅にあったジャズのレコードを聴いたことがきっかけとなり、ライオンと知り合ってからは地元のファン・クラブが主催するレコード・コンサートの常連となる。
やがてプロのカメラマンとなるが、地元ではせいぜい結婚式の撮影の仕事くらいしかなく、1939年、ニューヨークのライオンの誘いに乗って、ドイツ~アメリカ聞を往復していた最後の定期船で渡米する。
ドイツにはナチズムが訪れ、アメリカは第2次世界大戦に参戦しようとしていた。
ニューヨーク到着後、すぐにライオンと連絡が取れなかったというエピソードは、当時の混乱した社会情勢を物語る。渡米後、昼はカメラマンのアシスタントとして働き、夜はブルーノートの仕事に専念する。
当初はライオンとひとつの仕事を分け合っていたが、やがてウルフの提案によって、制作面はライオン、その他の管理面はウルフという体制が敷かれる。
ウルフがいう”管理面” には、会社の運営、ミュージシャンとの契約、販売店との交渉、ジャケット制作にまつわる作業、レコーディング中の写真を撮影することなどが挙げられる。
ライオンが兵役についていた期間(1941~43年)はウルフがブルーノー卜を支え、過去につくったレコードを販売することによって創立以来の利益を上げる。
ライオン除隊後の新オフィス移転や、すぐさま新しいレコーディングにとりかかることができた背景には、ウルフの優れた経営手腕がある。
以後ブルーノー卜は、現場はライオン、管理運営はウルフという二人三脚によって黄金時代を迎える。
ルディ・ヴァン・ゲルダー(Rudy Van Gelder)は、1924年、ニュージャージー州ジャージー・シティに生まれ、まもなく同州北部ハッケンサックに移る。
幼いころから、”オタクぶり”を発揮し、ハム無線に夢中になれば無線機を自作し、ある漫画雑誌で「自分の声が録音できる器械」という広告をみつけては手に入れ、あれこれ実験を試みる。
トランペットにも手を出すが、これはすぐに挫折する。やがて検眼技師としての資格を取得、ニュージャージー州テネックで開業する、両親が住むハツケンサックの居間を改装し、レコーディング設備を整える。
「小さいころから”録音” ということには関心があった。ハツケンサックの家の居間にあった設備はラジオ局で使っているコンソール以外、すべて自分でつくった。
そのコンソールはわずか1メートル足らずのものだったが、レコーディングには最適だった」
手作りのスタジオで知り合いのミュージシャンたちをレコーディングしていることが評判となり、1952年、友人であるサックス奏者ギル・メレのレコーディングを行なう。
メレがそのテープをブルーノー卜に売却したことから、その”サウンド” がアルフレッド・ライオンの耳にとまり、翌1953年、ギル・メレの紹介によって2人は出会う。
1500番台のレコーディングは、ライブやマンハッタン・タワーズなど一部の録音を除いて、すべてルディ・ヴァン・ゲルダー宅の”居間” で行なわれた。
リード・マイルス(Reid K,Miles)は、1927年7月4日、シカゴに生まれた。デザイナーになるまえは海軍に従軍し、隊長の専属運転手をしていたが、タイヤを盗んだ罪でアラスカ送りにされる。
退役後、ロサンゼルスに移り、チャウィナード・アート・インスティテュート入学。
「そんな学校に行ったのは、つきあっていた女の子のせいだった。
彼女といっしょにいられたし、それにアート・スクールが楽しそうだった。
彼女とはうまくいかなかったが、3ヶ月もしたらアートに目覚めていた」卒業後、ニューヨークに移り、ファッション・モデルとして生計を立てるかたわら、デザイナー、ジョン・ハーマンセイダーのアシスタントの職を得る。
ハーマンセイダーがブルーノー卜のアー卜・ディレクターをつとめていた関係から、やがてあとを継ぐかたちで、1956年からジャケット・デザインを手がける。
1500番台におけるマイルス・デイヴィスの最初の2枚、「1501」と「1502」のジャケット・デザインは、ハーマンセイダーとリードの師弟コンビによる合作となる。
そしてハーマンセイダーが「1508」まで手がけ、「1509」からリードの専任となる。
同年、ハーマンセイダーのもとから独立し、雑誌『エスクヮイア』のアート・ディレクターになる。その直後、ポストそのものが廃止されたことによってフリーのデザイナーとなり、さまざまな媒体を舞台に活躍する。
その間、クライアントのひとつであるブルーノートをはじめ数々のジャズ・レコードのジャケットを担当、その数は15年間で500枚に達する。
リード・マイルスのアシスタントをつとめたウェイン・アダムスの回想。
「ブルーノー卜やジャズのレコードは4色印刷(カラー)の予算がないことが多かった。リードはその制約を逆手に取った。
2色に抑えることで劇的な効果を出そうとした。たとえばモノクロのミュージシャンの写真を黒と赤、黒と青などのデュオトーンで印刷する。
それにタイポグラフィの色がデザインに奥行きを与えた。彼は文字で遊ぶのが好きだった。
だから彼は誰よりもタイポグラフィを重視した。タイポグラフィはあとから飾りでつけるようなものではなく、作品の重要な要素として考えていた」
1967年、35ミリのワイド・アングル・レンズを入手したことによって写真家としても活動をはじめる。1971年にはニューヨークとロサンゼルスを25回にもわたって往復するほどの売れっ子となる。
同年、ハリウッドにスタジオを建設、以後はロサンゼルスを拠点に活動する。
音楽の趣味はクラシック。ブルーノー トの仕事をしていたときもジャズはいっさい聴かず、テスト盤が届くたびに近所のレコード店にもっていってはクラシックのレコードと交換してもらっていたという。
アルフレッド・ライオン。フランシス・ウルフ。ルディ・ヴァン・ゲルダー。リード・マイルス。
4人が一体となって完壁なるジャズ・レコードを創造した1500番台のほんとうの物語は、マイルス・デイヴィスの「1501」からはじまる。